「いや… この人、ダメです… いや!!」
全く予想もしない形で水口と再会した千沙都は、パニックを起こしてしまっている。
「えっと…!?」
店員の梶谷は、どう対応していいか分からない。
「待ってくれ、話がしたいんだ」
水口は食い下がる。「帰って!帰ってください!」
千沙都は階段を駆け上がって自室に逃げた。水口は流石に、追ってくることはしなかった。 梶谷はようやく、冷静さを取り戻した。 「お客様、申し訳ありません。事情は分かりませんが、今日のところはお引き取り願えますか」「私はあの子の家族です。話し合いに来たんです」
「そう言われましても…」
騒ぎを聞きつけて、店長の槌田が、奥の控室から出てきた。
「お客様。申し訳ございません。これ以上騒がれますと、こちらとしても警察に相談しなければならなくなります」「私は父親なんですよ?」
「では、警察同伴の上でお話し願えますか」
「…」
「どうかご理解下さい。お願いします」
「…分かりました。またご連絡します。今日は失礼します」
水口がしっかりと店を出て、ある程度遠くまで歩いて行ったの確認してから、槌田は千沙都の部屋を訪れた。案の定、泣いている。「うっ…う…」
「…大丈夫か?」
千沙都はかぶりを振る。「あの人は、本当にお父さんなんか?」
千沙都は泣きながら、今までのいきさつを説明した。「…今まで連絡は取ってなかったんやろ?」
一通り千沙都が話し終わって初めて、槌田は口を開いた。「はい、一度も取ってません。携帯も変えて、連絡先も分からなくしたはずなのに…」
「どうにかして調べてきたのか、たまたま見つけたのか… パネル写真、口元を隠してても意外に分かるもんやからな…」
「…」
「…今日はもう早めに上がれ。これからどうするか、明日以降ゆっくり相談しようや」
千沙都は、かろうじて頷いた。「お前、朋美と仲良かったよな。
…おーい、朋美」 槌田店長はキャストの待機場所をのぞき込むと、朋美という名の源氏名のキャストを呼びつけた。「朋美、今日はもう上がっていいぞ。悪いが、きららを家まで連れて帰ってくれないか。時給はつけとくから」
(※風俗店のキャストは基本的に時給ではなく、客が入るとはじめてペイが発生する。しかし一部の店はキャストに対し、客がつかなくても待機している間の時給を出す、いわゆる『時給保証』というシステムを採用している所がある。ホワイトな店と言える)「はい、いいですけど」
「きららも、万一ということがある。家の場所まで特定されてるとは思えないが、しばらく朋美の家に泊めてもらえ」
「…分かりました。
ごめんね、朋ちゃん。ワケは、あとで話すから…」「先輩、無理しないでください。話したくなったら、教えてくださいね」
人の優しさが心に沁み、千沙都の目にはまた涙があふれてきた。
♦
槌田は心底心配していた。自分は有名店PEARLの店長である。店の売り上げを一番に考えるのは当然であり、店長としての務めである。今やきららこと千沙都はPEARLの不動のNo.1であり、店にもたらす利益は莫大なものだ。ここで休まれるのは経営者としては絶対に避けたい。しかし、ビジネスライクな考えは置いておいて、千沙都にはどこか応援したくなるところがあった。そういう、人柄というか雰囲気を備えた人間というはいるものだ。この子がNo.1なのも当然なのだろう。
退勤後のRINEで「明日は予定通り出勤します。休憩時間に相談させてください」とメッセージが来たので、槌田は「了解です。店としては君にぜひ働き続けてほしいけど、無理しないように」と返した。翌日、約束通り千沙都は出勤してきた。
「すみません。正直、ゆっくり考える時間が取れなくて」
「だろうな… 少し休みをとるか?店としては当然、お前にはこれまでどおり働いてほしいんだけどなぁ」
千沙都は考えた。私がここで働いていることを突き止めた水口《あいつ》のことだ。これで大人しく引き下がるとは思えない。そのうち、また店にやってくるだろう。何より、この店に出勤を続けていると、退勤後に尾行される可能性が高い。
「やっぱり、お店は辞めないといけないと思います。尾行とか怖いので…」
「そうか…そうだよな」
「すみません。こんなにお世話になったのに…」
「しょうがないさ。人生いろいろあるって。
…お前、担当のスカウトいたよな?」「はい。漆島《うるしま》さんです。」
「このことは伝えてあるのか?」
「いえ、まだ何も」
「そうか。いいよ。俺から伝えとく」
風俗のスカウト(スカウトマン)というのは、法律的に言うと黒に近いグレーの存在だ。風俗店で働こうとしている女性を見つけて店に紹介し、入店が確定すると、その女性の手取りの10~15%程度を毎月店舗からもらう。千沙都をPEARLに紹介した漆島には、彼女がしっかり働いてくれる限り毎月数十万円が転がり込んできているはずだ。これをみすみす手放すのは、漆島としては是が非でも避けたいところだろう。
お店を辞めることで、もちろんPEARL自体と店長に申し訳なく思うが、漆島にもすまないと千沙都は思った。スカウトマンというとチャラついた人種を誰もが想像するし、漆島の見た目も実際そうだったが、決して悪人というわけではなかった。むしろPEARLという良いお店を紹介してくれたことに、恩を感じているくらいだ。
人から後ろ指を指されようとも、すごく好きな職場だった。辞めるのは残念だが、仕方ない。貯金はあるが、この先どうしようか。
「…そろそろ時間だな。出勤予定は取り下げてなかったから、今日もお客さんは来とるんやけど…ご新規の人だな。いけるか?無理はせんでいいぞ」
「いえ、大丈夫です。いけます」
槌田は心底、このまだまだうら若い薄幸の乙女の芯の強さに、心から感心した。
―一方。千沙都は、精一杯意地を張って「いけます」といったものの、心の中はぐちゃぐちゃのまま、気持ちが切り替えられないでいた。
(ダメだ、新しいお客さんに会うんだ。笑顔にならないと…)
頭では分かっていても、どうしても涙で視界が滲んでくる。
なぜ、今になって。せっかく、これからは心配のない未来が待っていると思ったのに。
過去はどこまでも、自分を追ってくるのか。
誰か助けて。
誰か。
梶谷が客を案内している声が聞こえる。初めての客だ、笑顔、笑顔、笑顔をつくらなきゃ―
「きららさんのご指名、ありがとうございます。お時間までごゆっくりどうぞ」
その初めての客は、一目で仕事を抜け出してきたことが分かる、スーツ姿の、小柄で髪の長い、女のような華奢な体格の若い男であった。だが、口を開くとまるで老人のような口調で話した。
「ここにくれば美しい女子《おなご》が抱けると聞いたんじゃが、間違いないか?遊郭も随分と洋風になったもんじゃの」
高級風俗店PEARLは、株式会社ギャラクティカのオフィスにほど近い、新宿歌舞伎町に店舗を構えていた。
(つづく)
「いや… この人、ダメです… いや!!」 全く予想もしない形で水口と再会した千沙都は、パニックを起こしてしまっている。「えっと…!?」店員の梶谷は、どう対応していいか分からない。「待ってくれ、話がしたいんだ」 水口は食い下がる。「帰って!帰ってください!」 千沙都は階段を駆け上がって自室に逃げた。水口は流石に、追ってくることはしなかった。 梶谷はようやく、冷静さを取り戻した。 「お客様、申し訳ありません。事情は分かりませんが、今日のところはお引き取り願えますか」「私はあの子の家族です。話し合いに来たんです」「そう言われましても…」騒ぎを聞きつけて、店長の槌田が、奥の控室から出てきた。 「お客様。申し訳ございません。これ以上騒がれますと、こちらとしても警察に相談しなければならなくなります」「私は父親なんですよ?」「では、警察同伴の上でお話し願えますか」「…」「どうかご理解下さい。お願いします」「…分かりました。またご連絡します。今日は失礼します」 水口がしっかりと店を出て、ある程度遠くまで歩いて行ったの確認してから、槌田は千沙都の部屋を訪れた。案の定、泣いている。「うっ…う…」「…大丈夫か?」 千沙都はかぶりを振る。「あの人は、本当にお父さんなんか?」 千沙都は泣きながら、今までのいきさつを説明した。「…今まで連絡は取ってなかったんやろ?」 一通り千沙都が話し終わって初めて、槌田は口を開いた。「はい、一度も取ってません。携帯も変えて、連絡先も分からなくしたはずなのに…」「どうにかして調べてきたのか、たまたま見つけたのか… パネル写真、口元を隠してても意外に分かるもんやからな…」「…」「…今日はもう早めに上がれ。これからどうするか、明日以降ゆっくり相談しようや」 千沙都は、かろうじて頷いた。「お前、朋美と仲良かったよな。 …おーい、朋美」 槌田店長はキャストの待機場所をのぞき込むと、朋美という名の源氏名のキャストを呼びつけた。「朋美、今日はもう上がっていいぞ。悪いが、きららを家まで連れて帰ってくれないか。時給はつけとくから」 (※風俗店のキャストは基本的に時給ではなく、客が入るとはじめてペイが発生する。しかし一部の店はキャストに対し、客がつかなくても待機している間の時給を出す、いわゆる『時給保証
秩父出張から帰ってきた七海と凛太郎は、いつもの業務に戻っていた。 ある日の終業後、七海の部屋。ギャラクティカでの業務が終わっても、七海は自分の部屋で副業のwebデザイン業務。退勤と同時に九頭龍に戻った凛太郎も、りゅーペイ事業の仕事がある。それぞれ、七海は自室のデスク、九頭龍凛太郎はリビングのテーブルでPCを広げて真面目に仕事に打ち込んでいるのだが。「カタカタカタ…」「カチ…カチ…」ひたすら、キーボードとマウスを操作する音が、無音の部屋に響いている。…と。 突然、テーブルを両手で「バン!」と叩いたかと思うと、九頭龍凛太郎はやおら立ち上がって絶叫した。「ンガー!!!つまらん!どうして偉大なるこの儂が人間風情の仕事などせねばならんのだ… そうじゃ、女子《おなご》じゃオナゴ!美しい女子を抱かせろ!!」「うっるさいわね、もー!!」 七海は自室から顔を赤らめて叫び返す。「龍神といえば色欲、これ常識。目覚めてから、何かを忘れておると思っとったわい…! 女子《おなご》を忘れておったのじゃ。これほどイケメン龍である儂が、女子を何か月も抱いておらんとかあり得んぞ!」「知りませんッ!!!」七海は大事な商売道具であるはずの高価なPCを、九頭龍凛太郎の顔面に向かってぶん投げた。♦ 10年前―。 勇 千沙都《いさむ ちさと》は、13歳で父親の幸次郎を事故で亡くした。母親の京佳《きょうか》と千沙都は、近所でも評判の美人|母娘《ははこ》だった。シングルマザーとしての生活の厳しさは、予想した程ではなかった。家賃は公営住宅に引っ越したおかげで月2万円以下に押さえられた。自治体からの補助金は全ての母子家庭がもらえるわけではないし、全額ではなく一部支給となる場合もあるらしいのだが、京佳は運よく全額給付の対象となった。また、児童育成手当も月1万5千円。自治体からは月6万円程度もらえていた計算になる。それに父親・幸次郎の死亡保険金が入ってきた。 しかし… 小さな会社を経営していた幸次郎には、かなりの額の借金があった。それまでは主婦だった京佳は、ファストフード店のパートの仕事に就いた。借金を返しながら、このまま慎ましく幸せな生活を送っていくつもりだった。 京佳は美人だった。結婚した年齢も若かったので、娘の千沙都が中学3年の15歳になった年でも36歳、まだま